Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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個の可能性研究会ワークショップ2003・分科会B

樫村:今日は、こちらに来て下さっている方の関心に応じて臨機応変な展開をしたいなと思っているので、皆さん自己紹介とこの会での問題関心、今ご自身が関わってらっしゃるフィールド、研究されていることなどありましたらお話し下さい。
小井:国際基督教大学大学院修士課程三年の、小井祥資と申します。比較文化を専攻しております。スピッツというロックバンドついて論文を書こうと思っています。この研究会はほとんどスピッツの研究とは関わりがないように見えるのですが、グローバル化という視点から日本のロックバンド・グループを捉えるということで、面白いものが得られるのではないか、と考えて宮永先生について勉強しております。勉強不足ではありますが、どうぞよろしく御願い致します。
能勢:私は元々、小井さんと同じ国際基督教大学大学院比較文化研究科博士課程二年に在籍しておりました。現在は大学から離れた形で研究を続けております。今回は分科会で、事例と主題について発表させていただきます。宜しくお願いします。
篠田:篠田大三郎です。多摩大学大学院の客員教授で研究・技術マネジメントに関わる諸問題を教えています。そのほかに、NPO法人創業支援推進機構(http://www.ett.or.jp)で、ハイテク・ベンチャーの創業支援や上場企業の社内ベンチャーの事業評価などを行っています。元々の専門は超LSIのデバイス・プロセス分野ですが、二十数年前から先端的新分野、例えばバイオテクノロジーとエレクトロニクスの融合領域であるバイオエレクトロニクスや今最も注目されているナノエレクトロニクスなどの研究開発のマネジメントに従事してきました。社会科学・人文科学は全くの素人ですが、「個の可能性」については強い関心があります。時々こういう会に参加してカルチャーショックを受けたいと思っております。よろしく御願いします。
永澤:永澤です。福祉系の大学・専門学校で、社会福祉援助技術、ケースワークなどを教えております。もともとは東京都立大学大学院でカントを中心とした哲学や現代思想をやっておりまして、その二つをなるべく一貫した形でやっていこうということで今回この発表につながることをやっております。この『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』のワークショップには去年も出させていただきました。前の職場で樫村さんに宮永先生のワークショップを紹介して頂いてからのおつき合いです。今日はちょうど超LSIを研究しておられる専門家がいらしているので、午前中の私の発表では触れませんでしたが、是非お聞きしたいことがありますので、後ほどお話を伺いたいと思います。
竹下:私は、国際基督教大学学部六年生の竹下晶子と申します。社会科学を専攻しています。宮永先生に卒論を指導していただいています。卒論は、まだ整理されていない段階ですけれども、クラブカルチャー・クラブミュージックについてフィールドワークしています。このテーマを選んだのは、自分自身がクラブカルチャーに興味を持っていて好きだからです。クラブとは、その場で音楽を聴き、踊ることで一体感を得ることを自然体で楽しむイベントで、酒場やディスコとはちがうものです。
伏木:私は大正大学博士課程三年で、辛島先生という歴史学の先生のもとで比較文化を専攻しております。現在の専門はバリ島のガムランを巡る言説で、基本的にはバリ文化が、どういう枠組みの元に置かれていて、そのなかでいかにバリのガムラン奏者たちがいわゆるカッコ付きの「バリ」という概念をいかに表象するのか、そしてどこにアイデンティティの地点を見つけようとしているのかという研究をしています。今そのテーマで、博士論文をまとめているところになります。元々はガムランの演奏から始めたので若干理論的に弱いところもあると思いますがそういったところを埋めるために参考にさせていただけたらと思ってこの会に参加させて頂いております。
樫村:樫村です。愛知大学の文学部の社会学科で教員をしております。『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』の本で宮永先生とご一緒しています。その前は「宗教と社会」学会という学会で(宮永先生が)個人主義の可能性という研究会を持ってらしたのですが、そちらでご一緒させていただいたりしていまして少し長いおつき合いになっております。今回は分科会を持ってくれということで、ラカンでやるというのでしたら、ラカンの人たちのパネリストを集めて専門的にやるべきだったのかもしれないのですが、そのへんがちょっとよく分からなくて、立ち上げただけというような感じになってしまって、中途半端なのですが…。(私は)理論的には精神分析とか社会学の理論で、出来るだけあたらしい社会現象をもっとも説明可能な形で分析したいと思い、そういう分析理論を使ってはいるのですけれど、社会学者なので、先ほど竹下さんが言われたクラブカルチャーですとか、社会現象の新しい形に興味があります。今日は具体的な話をいたいと思っています。よろしくお願い致します。 
辰田:辰田彩と申します。宮永先生に卒論を指導していただき、ICUを98年に卒業しました。今日こちらの分科会に参加しました目的は、心理学的なことに興味があるからです。精神医学的な単語もたくさん出てくるだろうと期待しております。午前中の会で、価値と事実を混同してしまうという宮永先生のお言葉が出てきましたけれども、それは心理学的には投影と言うことだと思うのです。例えば、学歴がすべてであると信じ込んでいる人が、学歴が自分より高い人に対して「なんだあいつは学歴を鼻にかけて」などと言うのは、コンプレックスが邪魔して相手のありのままの姿をみることが出来ないわけです。その人はその人なりの悩みをもっているかもしれないのに、それは見えない。そういうことはしばしばおこりがちです。自分のコンプレックスに自覚的で、自分なりのアイデンティティが確立していれば、そのように相手のことを攻撃したりしなくて済むと思うのですけれども。私は個人的にそのような自分に無自覚的な人たちによく攻撃の対象にされるので、問題意識が高いのです。
さて、それに関連して、いまアイドルグループSMAPの「世界にひとつだけの花」という曲がミリオンセラーになっているのですが、その歌詞は「そうさ ぼくらは世界にひとつだけの花/ナンバーワンにならなくてもいい/もともと特別なオンリーワン」というものです。この歌詞が非常にみなさんに受けている。なぜこういうことになるかというと、自分はいつでも固有の自己でありたい、ということと他者とつながりたいということ、そして優れたものでありたいというこの三つをコンフリクトなしに実現したいという気持ちが、皆にあるからだと思うのです。私がそこに解決法として考えていたのは、ストーリーテリングです。これは、人が自分はこれこれこういう目的でこういう仕事をやっていくのだ、というアイデンティティー・ストーリーを他者に語り、それが聴衆に承認されることで、自分の安定したアイデンティティー・ストーリーを形成するというもので、これによってその人はほかの人のことも安定して見ることが出来るようになるのではないか、と考えていました。しかし、先ほど宮永先生に「それは無理でしょう。何故なら、話と言うのは聞く人によって語句の上書きをされるものだから、聞く人に投影によって語句をちがう意味に解釈されてしまう。だから結局それはひとりごとでしょ」と指摘されてしまったのです。それでどうしたらいいのだろう、というのは今日の私の課題です。いまひとつの問題は、私は人に対して、自分の病と言うか偏りに自覚的になって欲しい、と思うけれどもなかなかそうなってはくれないうえ、そういう人は自分の病に関係ないストーリーは聞かない、排除するという冷たい聴衆になってしまいます。そういう冷たい聴衆の問題です。その中で私はどう生きていったらよいのだろうという問題意識があります。学者としてではなく、一個人としてどう生きるかと言う問題意識でこの分科会にのぞんでいます。
樫村:鋭い問題提起ですね。卒論は何について書かれましたか?
辰田:立正佼成会という新宗教の座談会に出て、宗教的体験談を語る小集団の中にフィールドワークにいきました。涙を流して語る中に癒しがあるということを書いたのですけれども、稚拙なものだったと思います。ストーリーテリングには興味があります。
樫村:では、今日の能勢さんの発表にはかなり関わってきますね。先ほどのお話は辰田さんのキリスト教者としての実践の中で問題となっていることですか、それとも生活者として?
辰田:それは密接に関わっているのですけれども、特に生活者として生きるなかで人間関係に関して起こるトラブルについて、そのように思って参りました。しかし、キリスト教者としてのアイデンティティで生きておりますので、そのへんのご質問はお受けしていきたいと思います。
永澤:辰田さんはさきほど、「世界にひとつだけの花」という曲に関わるお話の中で、最初に三つのポイントを挙げられていたと思うのですが、あの歌が、自分がそれだけでオンリーワンであるという独自性だけでなく、優れた存在として認知されたいということを歌っているが故にミリオンセラーとなっているというご指摘は、歌詞のどの部分から読み取られたのでしょうか。
辰田:みないっしょうけんめい咲いているから、どれもきれいだね、花屋で選ぼうとしても選べない、みんなすごいよね、といった内容の部分です。
永澤:要するに、すごい、きれいというタームがどうしても出てくるというところから、読み取れるわけですね。
樫村:価値評価がどうしてもはいってきてしまうと。
永澤:そうすると、辰田さんにとって、他者からの承認とは、すぐれているという承認と同義なのでしょうか。
辰田:すぐれていて、かつ固有であるということを他者に承認されているという歌だと思うのです。いま、勝ち組負け組という言葉も流行りですからね。
永澤:そこのところは、私の発表にも関わりがあり、とても興味があります。
樫村:以上自己紹介を頂きまして、少人数ながらもわりに関心が近いテーマがあるのではないかと思います。是非活発な議論をして頂きたいと思います。ひとり二、三十分の検討で発表して頂きましょう。私がどちらかというと理論の方なので、具体的な事例を先に発表して頂いて、それを理論的に読むとどう読めるかということ風に進めた方がよいかと思います。事例に関する共通の興味もあることですし、そのあとを私と永澤さんで進めて行くのでどうでしょうか。では、能勢さんから先に発表をお願いします。
能勢:はい。私の発表はタイトルに「仮説」とあるように、事例、主題ともに実験的なものです。この場で皆様にいろいろ言って頂いて洗練させていきたいと思っております。どうぞよろしくお願い致します。「仮説:認識論としての語り」。本発表の目的は、語りを今現在の我々の認識論としてつかみ直すことにある。グローバル化のもとでは、個は自らの抽象化を迫られる。ローカルなコミュニティーがもはや個をとりまくコンテクストの実在性を保証しないからである。しかし、語りの場を観察するとき、我々はこの現状へのもうひとつの対応を見ることが出来る。
語りとは、構造と非構造の間の二律背反を表出する言語表現である。語りの場とは、語り手と聞き手からなる集団が語りを通じて作り出す関係である。語りの場で、語り手と聞き手は、自分達の経験の断片を、語りを通じてつかまえる。語りとは、別のいい方をすれば、経験の再現である。だじゃれも、神も、個がそれを経験するという点で同じ地平にある。語り手はあるときは経緯を語ることで、あるときは出来事にまつわる感情を語ることで、無限の特殊である出来事を比喩で結びつけ、意味付けようとする。
次は、「語りへの参加」です。人々は、特殊な出来事を語りで共有することによって場の成員となる。中根千枝は『タテ社会の人間関係』の中で、「去る者は日々に疎し」という諺を、場を共有しない者がグループから疎外されていくことを示した例として挙げているが、これは、現実の場所だけではなく、噂話、絶え間ない語りがつくり出す場からの脱落も指す。
「仲間」はある具体的な場を契機として集まり、語りを通じて形成される。具体的な場には構造があり、構造から溢れ出した語りが、結局は意味付けを通じて構造に吸収され、構造を強化することになれば、語りの場は構造化へ向かうと言ってもいいだろう。神話学は、この点を強調して、神話から個々の出来事の個別性を省いたプロトタイプ=認識的な構造を抽出しようとする。しかし語りはむしろ、構造ではなく、構造が用意した範疇におさまりきらない日常の中のせめぎ合いを表現する。姑は何故嫁に辛くあたるのだろう?という社会関係の謎に数限りない体験談や意味付けが凝集して、ひとつの語りの場を作り出す。せめぎあいは弁証法の出発点となる。バリッジはこの語りの特性について以下のように言う。「特徴的なことは、神話や民話によって与えられる筋書きは、まず聞き手が今まで体験してきた人生と、そこから生み出された生活態度に注意を喚起し、次には、語られる出来事や関係性に、曖昧さと予言性を与えることにある。認識は、経験と意味付けの間にある、矛盾と曖昧さに拠り所と秩序とを求め、その中で成長する。しかも、語りは通常、成人儀礼の当事者が知っているか、または、実際に経験している特定の2項関係を扱っているために、これらの関係性は弁証法的に構築されて諸真理への道となるのである。」(K.バリッジ『個のアイデンティティ』P.151)語りは、このように、構造化へ向かう力と非構造化へ向かう力の両方を持つ。構造があってこそ語りは成立しうるが、その語りが構造を非構造化していくのである。この弁証法のダイナミズム、特殊な事柄の共有が作り出す共通の基盤は、グローバル化の下で人が生きていくことを可能にするもう一つの認識論となる。
次に、「事例」です。構造からあふれ出した語りは、定着しない。出来事、ファッション、評判、時事ニュース、それらにまつわる感情などはいきあたりばったりで人々の口の端や週刊雑誌に現れては消えて行く。女性向け週刊誌「女性セブン」を開けば、目次には、芸能人のゴシップ、いま韓国で人気のテレビドラマ、医療過誤問題、増税対策法、パチンコのデビュー指南、今週の星占い、アメリカ人女優の整形手術、フランスのスト模様、かわいい雑貨紹介、などの記事が次々と並ぶ。各々のテーマに関連性はない。それぞれの話題について、「談話」が多いのも特徴である。医療過誤の記事なら、「医師が一生懸命やってくれて亡くなったなら、まだ納得はいくと思うのです。でも、放っておかれたような状態で死んでしまったことに、もう、怒りというか、たまらない気持ちになるんです…」「かわいそうでたまらなくなって、もう、(マッサージは)いいですといいました」(母親)。有名人のゴシップ記事なら「番組関係者はこう説明する。『その日、ふたりは初対面だったんですね。それで…(以下略)』。このような形で様々な「関係者」の発言とされるものが記事に挿入される。体験もの、インタビューものの記事も談話風に構成される。それぞれについて、内容は「誰某(何才)が、ああした/こうした」という経緯、「それについて、関係者誰某はこう語る/見る」に終始する。雑誌は、噂話の集大成として国内外の話題を拾い上げ、一週間で使い捨てられる。次の週には、新しい「事件」が起きると期待されるからだ。
ここでは、国内のみならず、国際的な話題も噂話のレベルで日常生活に流れ込む。グローバル化という、国際的な動きが直接に個々人の生活に影響し、ローカルな構造とそのコンテクスト内部でのアイデンティティを阻害する危険のある状況の中で、語りは個が構造を仲介せずに世界の出来事に直接対応することをも可能にするのである。
辰田:語りに非構造化に向かう動きがあるとはどういうことでしょうか。
能勢:構造によって与えられる説明に納得せずに語りを続けていくことで、構造が曖昧になっていく、あるいは新しい構造を再構築する可能性が出てくる、ということです。
辰田:なるほど。嫁姑の例でいえば、姑にあたられている嫁が「それはあなたの気のせいだよ」と言われたときに、「気のせいなんかじゃない」と言うことで、気付きや新たな語りが生まれるということですね。
能勢:もしかしたら自己批判や構造に対する批判が生まれるかもしれません。新しい社会関係を作っていく可能性があると思います。
永澤:これは私が授業で実際に事例として使った話なのですが、一歳半検診ではじめて自分の子に自閉症の疑いがあると宣告された母親が、その現実を受け入れられないでいたのですが、熟練したソーシャルワーカーにいろいろと気付きを促されているうちに、雷に打たれたように、気付いたというのです。これまで姑に「子供が変なのはあなたのしつけがおかしいからだ」と言われ続けていたのは、ひょっとして間違いだったのではないかと。この気付きをきっかけに、母親は自分の子供が自閉症であることを受け入れるようになっていったそうです。私は今この話を非常に強く思い出しました。この場合、構造というのは、姑が作った「子供が変なのは嫁のせい」という枠のことですね。このような話もあてはまると思われますか。
能勢:はい。たしかに、そのお話の場合、構造は、母と子という二項関係に付与された文化のカテゴリーだと思います。
辰田:「グローバル化の下で人が生きて行くことを可能にする認識論」という部分に希望があると思うのですが、何が希望の認識論なのかをもう一度明確に教えてください。
能勢:ひとつには、個がアイデンティティ・クライシスを避けることができること、いまひとつには、個が構造を仲介せずに出来事に直接接触できること、だと私は考えます。このような個は価値的ではなく事実的に生きていけるのではないでしょうか。グローバル化という価値的に混乱した中で一貫した自己を保って行けるのではないかと思います。
辰田:つまり、絶え間ない対話による構造と非構造を繰り返していくことによって、一貫したアイデンティティを形成していけるから、希望であるということでよろしいですか。
能勢:希望というか、そのように生きていけるのではないかと思います。
永澤:ただ、それは次の段階であって、誰でも、少なくとも最初は構造にとらわれていることは避け難いことですよね。ですから構造から非構造化に移るクライシスを避ける、という意味ではなく、非構造に対する免疫というか耐性がつくということではないでしょうか。
辰田:では、積極的な対話という風に考えてよろしいですか。積極的な対話によって、希望の認識論が可能になるという風に。
能勢:そう言えるかどうか私には分かりません。というのは、事例にあげた女性週刊誌もそうですが、ここに出てくる記事はいろいろな事柄を無責任に言いっ放しにしているからです。こんなことがあった、あんなことがあった、例えば、姑がまたあんなことを言っていた、という風に。ですから、そういうものが、辰田さんのいう「積極的な対話」なのかどうか、私には分かりません。
辰田:構造と非構造の連続が希望の認識論、生きていくことを可能にする認識論なんですよね。
能勢:構造と非構造は連続しないでしょうね。
辰田:私は出版社に勤めていたことがあるので、週刊誌が言いっぱなしになる理由は分かる気がします。○○は○○である、と断言してしまうとまずい時があるので、体験談をそのまま載せてしまえ、という風になるのですね。それはメディア上仕方がないと思います。ではどんなメディアが有効になるか、が重要な議論になってくると思います。
能勢:情報について事実性を問題にしない点は特性だと思います。体験談ならウラはとらなくてよい、と考えるんですよね。
辰田:能勢さんはその噂話風の、言いっ放しのものが大衆に受け入れられることは問題だと思われますか。
能勢:善悪の問題では考えていません。「語り」について私がした定義に沿って、事実的でないというのはひとつの焦点だと考えています。
樫村:バリッジの引用「特徴的なことは、神話や民話によって与えられる筋書きは、…語られる出来事や関係性に、曖昧さと予言性を与えることにある」について質問です。この「曖昧さ」というのは語りが構造から非構造にうつることによって出てくるものだとして、「予言性」とはなんでしょう。
能勢:ひとつには、民話の特徴としての「教訓」ではないかと思います。
永澤:それは能勢さんがバリッジをそう読んでいるわけですね。しかしそうしますと、バリッジはその特徴において神話と民話を区別していないということになりますか。
能勢:この文章の中ではしていない、と思います。
永澤:すると神話にも民話にも予言性がある、と。そうすると、予言性というのは意味として一義的でなくてはいけないですよね。つまり、その場合、神話の予言性と民話の予言性が同じでなければ意味が通らないですよね。そうすると、民話の方は分かるのです。共同体を動かしている法則性、つまり一定の生活形式(習慣、習俗)をある程度見えるようにするということですから。それで、こういうことをすればこういう失敗をするといったことが分かるようになる。しかし、神話の方はそれと同じかどうか分からないですね。今はバリッジの読みをしている訳ではないので、これ以上は進めませんけれども。民話については妥当だと思いますし、現在の我々の生活に適用できそうだと思います。
能勢:神話については予言性とは言えない、ということでしょうか。
永澤:いえ、言えると思うのですが、レベルが民話の場合と同じではない、質が違うのではないかという気がしただけです。
樫村:「語り」にはインターネット上での書き込みなども含まれますか。オーラルのやりとりのみを指すわけでしょうか。
能勢:私自身、女性週刊誌を事例としてあげているくらいですから、活字でも語り的なものはあると考えています。
永澤:では、インターネットのリアルタイムチャットなども当然ありですよね。
能勢:あると思います。聞き手が顕在していない個の語りとは何か、というのは文学の課題でもありますね。
永澤:これは提案なのですが、この問題意識は、樫村さんがお笑いトークなど去年から引き続き持っていらっしゃる関心にもつながると思うので、その点とからめてあとで樫村さんにお話いただければよいのではないかと思います。私の興味関心もまさにインターネット上の語りですから。
樫村:(関心が)非常に重なってきていますよね。語りは、精神分析では「パロール」というのですけれども、とても大事なことでして、語ることによって治療するというのが精神分析なのです。催眠、イメージ療法、絵画療法など、言葉を使わない治療も色々あり、言葉をうまくつかえない青年犯罪者や子供などはそういう治療法を使うのですが、基本的にはフロイトが創始したのは語る治療です。精神分析では、語るということは無意識と直結していて、語ることで、自分自身気付いていない無意識、ここでいうと非構造、を活性化していきます。だからこそ精神分析は人の記憶を再構造化したり、ストーリーを変えていく、と言われます。最近の物語療法などはそうですね。そういう関心をもって発表を聞いておりました。その時に、たぶん永澤さんは触れられていると思うのですけれども、語りは個人に閉じてはいなくて、語る相手がいないと出てこないのです。転移といいますけれども、語りたいと思う相手がいて、はじめて出てきます。相手に対する信頼関係がないと語りというのは出てこない。そういう意味で、人は他者に向かって語ります。能勢さんの議論では明示的ではないのですが、語りには語る相手としての他者が必要だということが非常に重要ではないかな、と思いました。ただ、事例が女性週刊誌という語りの特殊なものなので…何故女性週刊誌を事例として取り上げたのでしょうか。
永澤:これはひとつのゴシップの語りですよね。噂だけれど活字になっている。
能勢:一冊の雑誌の中に様々な話が乱雑に盛り込まれている点、内容に時事性が高い点、一週間単位で使い捨てにされるなど、活字であるのに銘記されて残ることを想定していない点などが私がこの事例を取り上げた理由です。そのほかに、私はここで取り上げていないのですが、話題を共有することによって「仲間」、ある種ヨコ型のネットワークが出来ていくのではないかと考えておりまして、その事例として適切ではないかと考えたためです。そういうネットワークを形成するのは、グローバル化への対応のひとつだと思います。例えば、「(サッカー選手の)ベッカム(が日本に)来たよ」というキーワードを出すだけで分かりあえる間柄は、「仲間」のような感じがする。「こないだ出たあの曲を聞いた?」『週刊誌に載っていたあの話って本当かな?』などもそうですが、そのような言葉の断片がつないでいく共同体はあるのかどうか、という課題です。
永澤:話題の内容は1週間で使い捨てられるようなものでありながら、それらをやり取りした結果出てきた間柄は持続する、とそういうことですよね。逆に、使い捨てられることを想定していない(かもしれない)週刊新潮だとかそういう雑誌に関しては関係の持続度は落ちるというようなことはありますか。週刊新潮だとかそういう雑誌と区別してもよいですか。
能勢:…はい。
辰田:だんだん問題意識が分かってきたような気がします。語りとはある具体的な場があって、それが契機となって仲間がうまれるという前提に対し、女性週刊誌などのマスメディアは、具体的な場は持たないが、ちょっとの間共有出来る場を提供しているということでしょう。
能勢:そうですね。次の週になると新しい事件が起こると期待されていて、まあ実際雑誌は出るわけですから期待は裏切られないのですが、そのために間柄は続いて行くということです。
樫村:しかも事件とか出来事は語りの特性だと先ほどおっしゃっていましたから。
永澤:直感的に思うのですが、それはほかの男性週刊誌とはちがうでしょうね。語りの共同体というような間柄が継続していくというようなのは。女性週刊誌固有のものとして話しているわけですよね。男性週刊誌にはそういうことはないですよね。
能勢:もしかしたら会社という別の間柄がしっかりとあるから、男性週刊誌には必要ないかもしれませんね。
永澤:つまりないってことですよね、その場合。
能勢:うーん…
樫村:構造が結構きっちりとしていて非構造に行きづらい、と。
能勢:母集団がしっかりしているところでは難しいということでしょうか。樫村先生のレジュメにもありましたように、何かパニックが起きたときに語りが活性化していくというところにつながっていくのじゃないかと思います。
樫村:竹下さん、クラブのような場所ではいかがでしょうか。クラブではおしゃべりしたりすることはありますか。
竹下:ひとつの重要な要素ではないかと思います。クラブの情報というのは、インフォーマルというか、あまり公にならないのです。好きな人同士はよく知っている情報なのですが、なかなかディープなところにいかなければ本当にいい情報や、面白いパーティーの情報はなかなか外部に出ていかないようになっていて、そういう目的がはっきりした人同士が知り合って、友達ができていくというところが大きいのです。ただクラブへ行って遊ぶのがはやっているから行く、という意味ではなくて本当に音楽が好きな人が個人と個人でくっついていって、どんどん広がっていくという、割合に面白い集団だと私は思っています。
樫村:大事な情報というのはパーティー情報ですか。
竹下:そうですね、フライヤーというものがありまして、これはクラブに実際に行ってまめに収集してどんどん情報を更新して、その時点でその地域で行われている個々のパーティーをつねに把握しておく必要があります。大々的に宣伝されていないので自分で行かないといけないというのが、クラブという場所の重要なキーです。
樫村:そこで語られる内容というのは音楽に限定されているのですか。
竹下:もちろんそこに好きな音楽を聞きにきているわけだから、話題の中心はおもしろいDJやパーティーのことが多いようです。なかなか表には流れないようなことが、思わぬところに転がっていたり、ということはよくあります。例えば、出演しているDJ自身からそのパーティーについての意見を聞くことが挙げられます。能勢さんの議論には、どうつながっていくか分かりませんが。私は今回はお話を聞かせていただくのを中心に、と思っていますので、あまり準備もしてきていませんし、お話を進めていただいて結構です。
樫村:私自身がクラブというものがよく分からないので、難しいですね。あとで音楽の話が出てきた時にまたお願いしましょう。
篠田:能勢さんにとって、週刊誌というのは中心的な事例なのですか。これを中心にやっていこうと思われていますか。
能勢:この事例は仮説を磨いていくために取り上げたものです。事例と理論がセットになっていないと理論が現実的かどうか検証できないと考え、拾ってきたものなので、磨かれた理論をもとにもう一度フィールドに出ていこうと考えています。
篠田:語りの場合、聞き手が特定他者なのか不特定他者なの、それからメディアとしてどういうメディアなのか。かなり多様性があると思うので、対象をきちんと設定するのは研究論文をまとめる上では重要だと思います。
能勢:ありがとうございます。
樫村:私はバラエティ番組を中心とする日本のテレビの語りに見られる固有性に興味がありまして、調べたことがあるのですが、特に日本のテレビの語りは笑いの語りなのです。笑うことで共同性を共有する。日本では規範などが非常に弱いので、いっしょに笑うことでいっしょにいることを確認出来るわけです。
 バラエティ番組では、(例えば)最近、ドキュメンタリーなどに、それをスタジオで見ている人たちが小さな四角い枠に囲まれて出てきます。それは、スタジオにいる人たちが(そのドキュメンタリー映像を)どう見ているかも映され編集されて、加工された映像として視聴者に対して届けられているのですけれども、その際には女性週刊誌と同じで、いいとか悪いという価値付けはあまりないし、識者も出てくるようですけれどもおもしろおかしく茶化してしまったり、という風になっています。大体司会者がお笑い芸人だということが最近は増えていますし、問題について価値付けたり規範付けたりすることよりも、現実の受容というとちょっといいような言い方なのですれども、笑い飛ばすことで曖昧さをそのままに保存していくというような気が私もしています。
能勢:私も漫才は事例として考えていました。グローバル化のなかの新しい時代の漫才というのは、それ以前の構造化の時代の漫才とちがうのではないか。ボケとツッコミを繰り返して行くうちに、それまでの話が話にならなくなる、ヤワになってしまうという漫才があるのではないか、と考えていました。よい事例がなかったのでここでは取り上げませんでしたが。
樫村:深夜にやっていて、若者からだけではなく、カルト的な人気を集めて新しいムーブメントをつくっていくようなバラエティ番組というのは、それを理解出来る受容者、ウケる相手というかセンスがわかる受容者というのを結構限定しています。それが、女性週刊誌の場合、男の人たちが作っていて、女性に対してもうこういうものだ、と高みからばかにして記事を作っていて誌面を作っているというような議論がありました。実際にどのような読者層を想定しているのか、能勢さんは受容の方のリサーチはされていますか。
能勢:いまのところ、読者について調査するということはしておりません。
永澤:辰田さんはどのような出版社にお勤めだったのですか。
辰田:新聞社です。そこで、あまりこういう出来事だったと説明するのはまずいから、こう言ったというのを載せておけ、と誰かが言っているのを聞いたのです
樫村:大学生が女性週刊誌を読んでいますか。能勢さんは読みますか?
能勢:読みます。さきほど永澤さんが、男性週刊誌と女性週刊誌は別に分けるかとお尋ねでしたが、私はやはりどちらも同じく基本的には語りなのではないかと思います。
樫村:語りの問題として週刊誌を読んでいくというのは面白いですね。
辰田:いろいろな話題が雑多に一冊に入っていると、(読者にとっては)その中から共感しやすい話題を好きに選び、自分を重ねあわせることで自分を語るという装置にもなると思います。例えばこの医療過誤の問題でしたら、私も先日病院でひどい目にあってね、と言いやすいということがあるじゃないですか。日本人は特に自分のことを自分のこととして語るのが苦手で、誰かの話に自分の話を重ねあわせないと話せないということがあるので、そういう人にとっては役に立っていると思いますね。
永澤:まあそれは構造なんで、それを非構造化する契機というのが、いまいちはっきり見えなかったので、それがもう少し見えるようになったらいいなと思うんですよね。いま辰田さんがおっしゃったことは、かなり構造装置レベルの話で、それはかなり「語らされている」話ですよね。要するに、感情移入出来るわけですよね。医療過誤まではいかなくても、病院でひどい目にあったと思っている人たちが集まって、「ひどい記事があったわよね」と話しているわけなのですが、それは「語らされている」話で、非構造のレベルまでいっていないでしょう。
樫村:語り手が自分のことを語ることを日常的に抑制されているのであれば、辰田さんが言うように、それが構造であり、語ることは構造から出るための出発点になるのではないでしょうか。
永澤:それはそうです。必要条件ではないですけどね。
能勢:現実的にいえば、あなたの経験と私の経験は、同じように病院で粗雑に扱われた経験でも、まったくちがう特殊な経験の筈です。ですから、それが結びついていると考えるのは、比喩でしかありません。私は、この点について、主題の最後に書いています。これが、私が語りの受容者について言える部分でもあります。出来事はすべて特殊であり、その間を論理的に結びつけようとするのは普遍主義的アプローチです。他方、特殊は特殊のままにしておきながら、それらを一緒だと「思う」、経緯が同じだから同じだ、同じような目にあったので同じように悲しい、と思えるのは比喩的にアプローチするからであり、その意味では、日本で流通している言説のうちのかなりのもの、噂話などとはちがったものだと思われているもの、先ほど出てきた男性週刊誌のようなものも、「語り」の範疇に入ってくると思います。
小井:それではお時間になりましたので、休憩ということでお願いします。

===== 休憩 =====
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